鬼玄蕃こと佐久間盛政の実像
疑惑の悪評1 佐久間盛政の人柄については、柴田勝豊との確執で傲慢な人物だったというのが定着している。(人柄については他に参考になる記述が乏しい。)
『柴田退治記』(賤ヶ岳の戦いのすぐ後に成立。著者は秀吉の祐筆である大村由己)では、柴田勝豊が秀吉に降ったのは勝豊が傲慢な佐久間盛政を嫌っていたためと記述されている。
『太閤記』(成立は江戸時代初期。著者は加賀前田家の家臣である小瀬甫庵)でも柴田勝豊が秀吉に降った理由は『柴田退治記』にも記された佐久間盛政の傲慢さだと記述されている。
だが濡れ衣の可能性が考えられる。
越前丸岡2万石の大名だった柴田勝豊は、近江長浜13万石を治めることになった。当然より多くの人手が必要になったので柴田勝家は柴田家の家臣や与力を柴田勝豊の下に付けた。
長浜では新任の柴田勝豊が独裁的な権力を持てたとは考えにくい。そして部下には山路正国のように秀吉への降伏に不満を抱いた武将たちがいた。
つまり柴田勝豊の部下には他に秀吉への降伏を熱心に勧める人々がいて彼らは山路たち反対派を抑え込んで秀吉への降伏を柴田勝豊に決めさせたと考えられるのである。
もし降伏派が多数を占めたなら勝豊の意志がどうだったとしても降伏することになっただろう。
また秀吉の立場なら柴田勝豊の部下たちにも調略を仕掛けていたはずである。
『柴田退治記』でも他の史料でも、賤ヶ岳の戦いにおいて大義と正義は秀吉の側にある。
賤ヶ岳の戦いは羽柴軍の長浜城包囲から始まった。 秀吉は同じ織田家の武将の居城に対して包囲という攻撃を仕掛けた。さらに織田信孝の岐阜城も包囲した。だが秀吉が仕掛けたこれらの攻撃はどの史料でも批判されていない。批判されているのは柴田勝豊を追い詰めた佐久間盛政(史料によっては柴田勝政)の傲慢さだけである。 疑惑の悪評2 『七国志』
(著者は京都の儒学者。)
・荒山合戦で盛政は織田信長父子が他界したのをいいことに前田利家に協力する振りをして前田勢を背後から攻撃し能登国を奪おうと企んだ。前田利家が天平寺の人々を寛大にも許して戦を早く終わらせたのでこの企ては失敗した。
・盛政は陰謀などなかったかのように前田利家に接し、佐久間勢が討ち取った敵将の首を贈って戦勝を祝った。前田利家は陰謀に気づいていたが気付かない振りをして盛政の使者をねぎらった。
・賤ヶ岳の戦いの前哨戦で佐...